上弦の月 7

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 相変わらず愛想のない部屋に戻ってきた工藤は、上着を脱いでソファに引っ掛け、ネクタイを緩めるとシャワーで汗を流した。
 三十五階建ての最上階にあるこの部屋は、曽祖父から受け継いだ財産のうち、会社を興すために横浜の土地と屋敷を売った折に、鴻池の紹介で買ったものだ。
 考えてみると荒木や小田とともに鴻池とは腐れ縁といえるだろう。自分に対する後輩という以上の執着を感じてはいたものの、感謝こそすれそれが工藤にとってマイナスになるようなことはなかったし、何より鴻池は持って生まれた環境や財、それによる力を使いこなすことのできる男だったから、遊びも半端ではなかったが一緒に仕事をしていて難関と思われるプロジェクトをやり遂げる小気味よさを幾度も味わった。
 自分の出自や性格を考えて、鴻池が鴻池物産に戻った際にはさっさとあとを追うようにMBCを辞めて会社を興した。工藤がプロダクションを興すのに後押ししてくれたのも鴻池で、工藤の会社のスポンサーとして以後つきつはなれつの関係を保っている。
 唯一、良太にちょっかいを出した時には縁を切ってやるくらいは考えたのだが、工藤の逆鱗に触れた鴻池はあっさり良太に関わるのをやめ、現在も青山プロダクションのメインスポンサーとしての仕事の行き来がある。
 怜悧で酷悪な性格にもかかわらず、目をかけた相手にはとことん援助を惜しまない上に恩着せがましい真似は一切しない、非常に切れる頭脳を発揮するかと思えば、子供のように突拍子もないことをやってのける鴻池は案外憎めない存在なのだ。
 もっとも、その鴻池に手痛い目にあったのだから無理もないのだが、良太は鴻池に必要以上に負けるもんかと敵対心をむき出しにしている。
「…ったくあのガキときた日には、ムキになりやがって」
 サイドボードからJMラムのボトルを取り出してグラスに注ぐと、工藤はすぐ顔に出る良太の子供っぽい表情を思い出して笑みをもらす。
 たいてい工藤の好きな酒を調達してくれるのは平造だ。サイドボードに並んでいるのはラムやコニャックが多い。高い酒ならいいというものではない。飽きずに飲めるマイヤーズなどは必ず置いてある。
 最近では良太を連れてきたときに酒をつき合わせているが、懸命に工藤に合わせようと背伸びしているのが可愛いなどと思っている自分をフンと笑う。
 さっきは千雪の話にまた過敏になっているのが見て取れて、無理強いをしてもどうせ拗ねるばかりなのはわかっていた。
 だが実を言えば、酒をつき合わせながらの良太とのそんな他愛ない時間を過ごせなかったのは少し惜しい気がするのだ。
 『くれぐれもあなたのアキレスが良太だと、知られないことです』
 波多野の苦言がいつも頭の隅に引っかかっていた。
 T、とある世界では呼ばれているという男とはずっと電話でのやり取りのみだったのが、最近になっていきなり波多野という取引先のビジネスマンとして工藤に近づいてきた。
 昨年の暮れあたりにはかなりの危険に遭遇した工藤に迫る影をそのたびに密かに払いのけた。決して工藤の指図で動いているわけではない。が、ここしばらく平穏な状態が続いているのはあの男がおそらく動いているからだろうとは察しがついた。
 だからといって気を緩めると良太を危険にさらすことになりかねない。タクシーはエントランスや車寄せにまで入れず、通りで降りることにしているのもそれを考えたからだ。
 いずれにしても良太をこの部屋に連れ込むよりは会社のプライベートルームに落ち着く方がまだいいだろう。
「それもあのガキのご機嫌次第ってか?」
 工藤はそんなことを呟いて自嘲した。
 意地を張ってついてこなかったのをくよくよしながら、どうせ千雪の方がいいんだろうとか何とか、今頃猫でも相手に喚いているに違いないのだ、あのバカは。
 良太の考えていることなど手に取るようにわかる。
「まあ、アスカを迎えにやったり、慣れないオヤジどもにいろいろ言われて今夜は疲れさせたしな」
 いい訳じみた呟きは静まり返った空気に吸い込まれる。
 フットライトを残して灯りを落とすと、内装を取り仕切った平造があつらえた厚ぼったいカーテンの隙間から漆黒に浮かぶ上弦の月が目に入る。
 細く鈍く放つ月の光を肴に、工藤はグラスの液体を口に含む。
 いつもなら甘美なはずの酒が美味くない。
 全く。
 こんなことなら良太と一緒に会社で降りて、言いたいだけ言わせてかまってやるんだった。
 俺としたことが妙に気を回し過ぎてオノレをコントロールできねぇなんざ、ザマぁないな。
 いまいましげに舌打ちした工藤は眠るには目が冴えて、一つ二つ残っていた海外とのアポイントを取るべく受話器を取りあげた。
 


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